第一回「親孝行大賞」受賞者発表!

  • 2020年2月28日
  • 2021年2月27日
  • 第一回
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親孝行大賞

  • 鹿児島県西之表市  中 村 達 郎様 (30代男性)

「あの頃の母」を助けたい

「何でこんな体に生まれたの?」
「病気がなかったら、僕も友達と同じようにサッカーができたのに」

僕が小学校低学年の時に母に言った言葉だ。
僕には生まれつき血友病(けつゆうびょう)という、出血すると血が止まりにくい病気があった。関節の中での出血を起こしやすく、出血を起こしてしまうと、血を止めるための注射が必要になる。関節の中の出血は例えると捻挫に近い感覚で、足首の関節はパンパンに腫れ上がり、歩くたびに激痛を伴い、血が止まっても腫れが引くのに数日を要する。そのため、当時はなるべく出血を起こさないように激しい運動は制限され、運動系の部活動は禁止されていた。
僕には仲良し3人組の友達がいたが、そのうち2人がサッカー部に入った。2人が上級生に混じってボールを蹴って練習している姿を、校庭の端で1人ポツンと羨ましく見ていたことを今でも覚えている。

なぜ病気を持って生まれたのか、こんな体に生まれなければ・・・
誰もどうしようもないから今の自分がいるのだろうと感じてはいたが、その悔しい思いをどうにか発散させたい一心で僕は母にそう尋ねた。

母は「ごめんね」と悲しそうに謝るだけだった。母への悪意があったわけではなかったが、こんなことを息子から言われる母の思いは気にも止めず、当時は悔しさの方が勝っていた。

それから時は経ち、幼少期からの病院通いの生活も影響して、僕は医学生になった。18歳で初めて親元を離れ、県外での一人暮らしが始まった。炊事、洗濯、掃除など、今まであまり意識したことのなかった母の有り難みをひしひしと感じるようになった。
そんな中、大学の授業の中で病気を持つ親の気持ちに触れたものがあり、「親は病気の子供を産んでしまった自分を責めてしまう」ということを聞いた。その時にあの頃の自分の言葉と母の申し訳なさそうな表情が蘇った。
「息子に病気があって母はとても大変な思いをしてきただろうに、それでもたくさんの愛情を持って僕を育ててくれたのに、僕は何てひどいことを言ってしまったのだろう」と急に自分が恥ずかしくなった。
次の帰省の時に、母に「あの時はごめんなさい。今まで愛情を持って育ててくれてありがとう」と伝えた。母も当時の事をしっかり覚えていたようで、ポロポロと泣いていた。

それから僕は小児科医になり、鹿児島で血友病患者会を立ち上げた。今では血友病があっても注射を打つことでみんなと同じように運動ができるようになっている。それでも病気のことで自分を責める親がいて、病気のことで悩む子供がいる。その姿はちょうど「あの頃の母」や「あの頃の僕」に重なる。
自分の経験を通して「あなたの愛情はきっとお子さんに伝わりますよ」とお話しすることで、病気で悩む親のちょっとした心の支えになれれば、それが一番の親孝行になると信じて、これからも活動を続けて行きたい。


いい話で感動した賞

  • 池田学園池田高等学校 日 笠 山 麗 来様
  • 大阪府豊中市 大阪のアン様 (70代男性)
  • 埼玉県東松山市 森 屋 多 美 子様 (60代女性)

<代表作品>大阪府豊中市 大阪のアン様の作品
「弟の供養」

昭和20年8月、ソ連軍が樺太に侵攻し、我が家の近くでも戦闘があった。弟は母に抱かれ、私は手を引かれて逃げ惑った。地上戦は沖縄だけでなく、樺太でもあったのだ。やがて樺太はソ連に占領され、我が家は接収された。

すぐの引き揚げは叶わなかった。追いやられた家は掘立小屋で、トイレも風呂もなかった。そこで終戦1年目の冬を迎えた。隙間風が吹き込み、家族が体を寄せ合って暖を取った。
「風邪を引かないように!」と、母。
樺太の冬の寒さは厳しい。ちょっと油断すると風邪を引く。暖房は火鉢だけだった。5月に入っても雪はあったが、昼間は春の陽射しが眩しかった。誰も風邪を引くことなく、あの極寒の冬に耐えたのであった。

10月に入ると、早くも2年目の冬が到来し、初雪が舞った。
「今年は、冬が早いわね」
母は誰に言うともなく言った。食料が不足がちで、お腹はいつも空いていた。それで、体の中から体を温めるエネルギーは湧いてこなかった。

そんな中、弟は風邪を拗らせ、母に抱かれて亡くなった。医者は見つからず、薬も手に入らなかった。あの気丈夫な母が、人前も憚らずに大声で泣きじゃくった姿が、今でも私の脳裏に焼き付いている。

引き揚げ船に乗れたのは、昭和22年だった。
「必ず迎えに来るわよ!」
タラップを上りながら、母は岸壁に向かって叫んだ。

子を亡くした親の気持ちが分かるようになったのは、結婚して子供ができてからであった。母は外務省やソ連大使館と連絡を取ったが、異国の故郷はもう遥か手の届かない所に行ってしまっていた。
「私は行けないけど、お前が迎えに行けるといいね」
病気がちの母は、いつしか私にその役目を期待していた。

私は外務省、全国樺太連盟、ロシア大使館と接触してアドバイスをもらい、いろいろと難しい手続きを経て、やっと樺太を訪れることができた。我が家のあった辺りで弟の供養をし、「母の待っている日本へ帰るぞ!」と、小石を一個拾い上げた。ホテルに戻って、小石を洗い磨いた。石の表面に弟の姿が浮かび上がったような気がした。

帰国後、母にその小石を届けると、ことのほか喜んでくれた。小袋を作ってその中に入れ、首から下げていた。気がかりが消え、それでほっとしたのだろうか、3か月後母は帰らぬ人となった。


こころぽかぽか賞

  • 池田学園池田小学校 さ え き い お様
  • 池田学園池田小学校 徳 永 佳 翔様
  • 池田学園池田小学校 か い だ み あ様
  • 池田学園池田小学校 楊 宗 篤様
  • 池田学園池田小学校 松 村 由 衣様
  • 池田学園池田中学校 伊 高 統 護様
  • 滋賀県草津市 つばき様 (20代女性)
  • 愛知県安城市 古 賀 裕 一様 (60代男性)
  • 兵庫県丹波市 霧島しほん様 (30代女性)
  • 大阪府大阪市 オウンゴール様 (60代男性)
  • 福井県福井市 雨上がり様 (70代女性)
  • 大阪府藤井寺市 曽 川 和 子様 (70代女性)
  • 埼玉県所沢市 りん様 (30代男性)
  • 東京都葛飾区 スイートホーム様 (50代男性)
  • 埼玉県朝霞市 瓜 田 修 子様 (60代女性)
  • 埼玉県所沢市 鷹山孝洋様 (30代男性)
  • 青森県弘前市 野球小僧様 (40代男性)
  • 大阪府大阪市 まさと様 (60代男性)
  • 千葉県市川市 のぶちゃん先輩様 (40代男性)
  • 鳥取県鳥取市 たけちゃん様 (50代男性)

<代表作品>青森県弘前市 野球小僧様の作品
「一子相伝」

我が家の親父は83歳。元銀行員で、今は山菜取りの名人。50年書き溜めた山菜カレンダーを見ながら、計画を立て雪解けが始まった春、ゼンマイ、ワラビ、タケノコ、そして山菜の王様タラの芽を、秋はサモダシ(ならたけ)を採りに岩木山に入る。私と言えば、山菜採りにほとんど興味はなく、ひたすら親父の採ってきた山菜を「食す」専門。

しかし親父も80歳を超え、さすがに足腰の衰えが顕著になってきました。一人で山に行かせるのは危険だな、と思った私は親父に「わ(俺)にも山教えてけねが?」と話したところ、親父はニヤリと笑いながら「おめ〜には、山は無理だね」と一言。

そこで母に「父さん、教えてやらねば、どうするして」と窘められ、ようやく「仕方ね〜な・・・だば、わ(俺)さ付いて来い」と一言。でも言いながらもなんだかとても嬉しそうな表情の親父。以来、親父の背中を押しながらの山菜取りがスタート。

親父は「いいか、覚えておけよ。ここにタケノコが出たら3日後はあそこの斜面に出るんだね」と秘密の場所を一つ一つ私に伝えます。時には私が「さすが親父だな。タケノコこんなに採れるとは」とおだてると得意げな顔。秋にサモダシを段ボール3つ分も採った時は「いいな、この場所はバレやすいから、車は離れた場所に停めねばまね(ダメだ)や!」と指南。それはさながら「一子相伝」の世界です。

私にとっての親孝行とは、このように親父と山に入り、一緒の時間を過ごすことだと思っている。親父の山菜カレンダーには既に来年の予定が記入されている。「親父、来年の春もまた行くべし。来年はわ(俺)の方がよげ〜(沢山)採るや!!」


ちょっといい話で賞

  • 池田学園池田小学校 や な づ め あ い か様
  • 池田学園池田小学校 む ろ や み ゆ う様
  • 池田学園池田小学校 佐 々 木 陽 斗様
  • 池田学園池田小学校 稲 盛 智 人様
  • 池田学園池田中学校 荒 川 文 哉様
  • 池田学園池田中学校 藤 清 音様
  • 延岡市立土々呂中学校 小 川 陽 七様
  • 埼玉県入間市 ちゅう様 (60代女性)
  • 茨城県守谷市 夢恋士様 (60代男性)
  • 埼玉県北足立郡 吉 澤 恵 子様 (30代女性)
  • 千葉県鎌ヶ谷市 ワイングラス様 (60代女性)
  • 埼玉県さいたま市 角 奈緒也様 (80代男性)
  • 京都府長岡京市 塚 本 大 輝様 (10代男性)
  • 大分県大分市 はらちゃん様 (10代女性)
  • 東京都清瀬市 こまじゅん様 (30代男性)
  • 東京都武蔵村山市 てぃーたん様 (30代女性)
  • 埼玉県志木市 だいだらぼっち様 (40代男性)
  • 東京都目黒区 ひよこ様 (50代女性)
  • 石川県加賀市 アオイロマン様 (60代女性)
  • 兵庫県神戸市 夕婆様 (60代女性)

<代表作品>東京都武蔵村山市 てぃーたん様の作品
「『ごめんなさい』より感謝の言葉を」

病室の中、一定のテンポで刻まれる機械音と管から漏れる呼吸だけが静寂を裂いていた。
「今夜が山です」
とドラマのような決め台詞を口にしてその場を後にする医師の姿を横目に、私は途方に暮れて涙を流すことしか出来なかった。

父はもう、脳死状態にあるという。
苦しみや痛みは感じていないそうだ。

全身を癌に蝕まれ、自力での歩行が困難になってからも、父は一言も弱音を吐こうとしなかった。そんな父の姿が鮮明に脳裏に蘇る。思い出される姿はどれも、満面の笑顔を浮かべてる。父は強い人だった。いや、最期まで弱音を吐きだす時間がどこにも用意されていなかっただけかもしれない。

縁起でもないなんて言葉に逃げて、考えることを拒否してしまっていたから。突如として響き渡る耳をつんざくような警告音。

「延命処置は父の望むところではありません」
父が私に残した最後の願い。終の信託は私が伝えた。

医師が処置をしないのはそれの所為。 静かに、時を止めようとしている父に出来る最期の親孝行だと自分自身に言い聞かす。それでも気持ちが追い付かない。

ごめんなさい。
意識するよりも先に言葉が口からこぼれ出た。

すがり付き、泣きわめきながら幾度となく謝罪の言葉を繰り返す私に、兄がそっと
「人は皆、心臓が止まった後も5分間は周りの音を聞いてるって云うからさ。最期こそごめんなさいより、ありがとうって伝えようよ。」
と呟いた。

心肺停止を告げる音を聞きつけた看護師が部屋に慌ただしく傾れ込み、そこに紛れた医師が「ご臨終です」と父の最期を告げた。

堰を切ったように母が泣き崩れ、傍に居た叔父や叔母が壁や床に顔を背けた。そんな中、我先にと兄が去り行く父に届けとばかりに
「ありがとうございました」
と声を震わせ、頭を下げた。
「今までありがとうございました」
「本当にありがとうございました」
と、兄と私の声が交差する。

兄に助けられ、最後に選んだ私の孝行。ちゃんと届いていたのかな。あれから10年。私にはまだ判らないけど、また会えた時には教えて下さい。
その時まで。

じゃあ、またね。


ハッピー賞

  • 第一学院高等学校中目黒キャンパス 花 野 真 帆様
  • 第一学院高等学校中目黒キャンパス 壽 原 ゆ き の様
  • 群馬県高崎市立佐野中学校 江 川 葵様
  • 群馬県高崎市立佐野中学校 エンドロール様
  • 群馬県高崎市立佐野中学校 平 井 秀 矢様
  • あきる野市立秋多中学校 藤 正 悠様
  • 池田学園池田小学校 平 木 敏 子様
  • 池田学園池田小学校 久 保 雄 大様
  • 福岡県古賀市 みっちゃん様 (20代女性)
  • 埼玉県鴻巣市 ムーミンママ様 (50代女性)
  • 岩手県盛岡市 工藤 杞憂様 (60代男性)
  • 東京都目黒区 シケバン様 (10代男性)
  • 福岡県北九州市 さたけゆうこ様 (50代女性)
  • 大阪府大阪市 大 部 友 梨様 (20代女性)
  • 千葉県千葉市 米屋の娘様 (30代女性)
  • 京都府京都市 おすぎ様 (10代男性)
  • 宮崎県えびの市 ちびテト様 (30代女性)
  • 北海道札幌市 無知の知様 (20代男性)
  • 埼玉県所沢市 小 松 崎 ゆ み様 (30代女性)
  • 愛知県豊田市 マカロン様 (20代女性)

<代表作品>千葉県千葉市 米屋の娘様の作品
「 次女のジンクス」

ここは小さな商店。我が家のちょっとしたジンクスがある。なぜか代々次女が家業を継いでいるのである。ちなみに私は、三人兄弟の次女である。

でも両親は私達が小さい頃から誰も店は継がなくていいと言ってきた。特に母は、自分が子供の頃から親は忙しいし、自分の夢なんて関係なく継がなきゃいけないし、商人の家に生まれたのが嫌だったのだとか。だから私が商業高校に進学したいと言ったら猛反対。姉と弟はさっさと自分の道を決め、家を出た。なんとなく継がなくていいのかな……と思いつつ、自分にできる自信がなくて、結局私は普通のOLを続けていて子供も生まれた。

数年前、家業に必要な資格を親に内緒でこっそり取得した。幸い両親はまだ元気で、あっちが痛い、こっちが痛いと言いながら毎日重いお米や灯油を運んでいる。古い付き合いのお客さんたちはみんな高齢化して、中には自分の息子はわからなくなっても米屋のお姉さん(そのお客さんから見たら母もまだ若いうちなのでしょう)ならわかるというお客さんもいるくらいだ。辞めたくても辞められないと笑って話す母の顔はどこか満足気だ。

私もやっぱり商売が好きだ。子供の頃から手伝ってきて大変なのは重々承知だ。それに今の会社にいた方が安定しているのもわかっている。家業がそんなに順調でないことも察している。

それでもなんだか心に引っかかるというか家業が私を惹き付けて離さないのだ。これが商人の性なのか。三十路を過ぎて、ひっそりと家を継ぐと心に決めた。次女の私に幾ばくかの商才があると信じて。これが私の最大の親孝行だ。


元気になったで賞

  • 池田学園池田中学校 龍 造 寺 萌 心様
  • 京都府木津川市 北 澤 喜 幹様 (50代男性)

<代表作品>京都府木津川市 北澤喜幹様の作品
「 手紙」

もうすぐ、80歳を迎える父母に、どうしても聞いておきたいことがあった。それは、父母の生い立ちである。自分のルーツを辿ることにもなるので、父母が元気なうちにと考えていた。同時に、まだ一度も口にしたことがない「感謝」の気持ちを伝えたいという思いもあった。

そんな気持ちを察したかのように、タイミング良く母から連絡があった。「渡したいものがあるから実家に来て欲しい」と。収穫した野菜でもくれるのかと思いきや、行ってびっくり。渡されたのは、一枚の古ぼけた「手紙」だった。部屋の整理をしていたら偶然出てきたらしい。

子どもっぽい字で、「おかあちゃんへ」と宛名が書かれていた。恐る恐る封筒の中身を開けてみると、今から40年前、当時小学校四年生だった私が、母へ贈った初めての手紙だった。全く書いた覚えはなかったが、文章を読み進めていくと、明らかに自分が書いたものであることが分かった。

当時、母は脳溢血で倒れ、生死を彷徨うほどの大病を患っていた。そんな母を気遣う切実な思いが、幼い字で綴られていた。間違いなく自分が母に宛てた手紙である。まさか、こんなに長く大切に持ってくれていたなんて。母の愛の深さを感じた瞬間、涙がこぼれ落ちた。

二人のやりとりを傍で見守っていた父が、何かを思い出し、徐に席を立った。再び現れたとき、手元には古ぼけた封筒を抱えていた。次は、何が出てくるのだろう?と身構えた。恐る恐る受け取った封筒には、「遺言状」と書かれていた。まさか?と思ったが、よくよく確かめてみると、祖父が戦争に行く前に書いたものだった。父にしてみれば、唯一お父さんのぬくもりを感じる宝物だったに違いない。

墨で書かれた初めて見る祖父の字に、緊張で身体が硬直した。一文字、一文字、行間に込められた思いにも想像を膨らませながら読み進めた。死を覚悟した人の力強さ、愛情の深さ、本当は生きたかったんだろうなと思うと目頭が熱くなった。遺影でしか見たことがなかった祖父を、身近な存在に感じた。

これまで親孝行とは、父や母にプレゼントを贈ることや一緒に旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、どこか華やかなイベントごとのように考えていた。しかし、今回、父と母から受け取った「手紙」や「遺言状」を目にしたとき、大切なことに気付かされた。

本当の親孝行とは、命を繋ぐことだと確信した。今、自分があるのは、間違いなく父や母、そして、先祖のおかげである。いただいた命を子どもたちに繋ぐために、一生懸命、働き、その姿を父母や子ども達に見せることこそ、最高の親孝行なのだ。

訪問をした最後に母が囁いた。「お父ちゃんとお母ちゃんの昔話を聞いてくれてありがとう」と。「ありがとう」を言わなければいけないのはこちらの方なのに・・・、いつまでたっても親にはかなわない。いつも以上に心地よい風が吹いていた。


ハートフル賞

  • 愛知県名古屋市 ぴょろこ様 (60代女性)

<代表作品>愛知県名古屋市 ぴょろこ様の作品
「 また来るねと握手とでいつもの一コマ」

認知症になり3回目の秋を迎える母。それと同時に、私には帰省という言葉に「介護のため」が添えられるようになった。

両手で温かく迎えられていた立場から、両手に荷物持ち、仕事終え足早に実家にたどり着く。それが習慣となった今、家族の協力のもとで何とか過ごせてこられてありがたい。

そしてもう一つ習慣化したのが、戻るときの握手!元気な頃はただ手を振りサヨナラだったが、もしかしてこれが最後になっては…と、いつしか握手となった。少し恥ずかしさもあったが、今では母も待っている感じだ。

いつまでもこんなときが続く事を祈り帰路に着く。


こころにビタミン賞

  • 済美平成中等教育学校 古 田 さ く ら様
  • 京都市立烏丸中学校 谷 口 生 哲様
  • 第一学院高等学校中目黒キャンパス 山 﨑 香 澄様
  • 第一学院高等学校中目黒キャンパス 工 藤 輝 星様
  • 第一学院高等学校中目黒キャンパス 酒 井 愛 賀様
  • 浜松市立八幡中学校 小 林 雅 歩様
  • 学校法人福井精華学園啓新高等学校 北 澤 恵 里様
  • 学校法人福井精華学園啓新高等学校 天 谷 可 菜様
  • 徳島県立脇町高等学校 河 野 絵 理様
  • 群馬県高崎市立佐野中学校 本 多 ひ な た様
  • あきる野市立秋多中学校 浅 見 り こ様
  • あきる野市立秋多中学校 藤 枝 幸 希様
  • 北海道釧路市 ゆああ様 (40代女性)
  • 北海道砂川市 きぃた様 (30代男性)
  • 大阪府茨木市 さよかな様 (40代女性)
  • 兵庫県相生市 土地守り様 (40代男性)
  • 長野県東筑摩郡 飯 森 美 代 子様 (50代女性)
  • 奈良県生駒市 三 枝 雅 和様 (30代男性)
  • 岩手県宮古市 舞太朗様 (30代女性)
  • 長崎県長崎市 ミト様 (20代女性)

<代表作品>北海道砂川市 きぃた様の作品
「 2歳の息子のプレゼント」

2歳になってますます活発になった息子。平日は仕事の都合でなかなか構ってあげられないこともあり、たまの休みに妻の休息もかねて息子と二人で少し離れた公園へ遊びにいった。

お昼頃で、あまり人がいなかったこともあり広場を走り回ったり、遊具で遊んだり。大変だったのは小高い丘の頂上で突然、オムツをとりかえることになったこと。横にすることもできず、動き回る息子を押さえながら変えるのはとても大変だった。
たった半日でもこれだけ大変だったのに、妻はこれを毎日やっているんだな。妻への感謝を想いながら、息子とベンチに座り持ってきたパンを食べさせていると

「どーぞ!パパ!」
そう言って、食べかけのパンを私に差し出してくれた。
「くれるの?」
私が聞き返すと
「うん」
笑顔でそう答えてくれた。

親孝行っていうのは意識しなくても自然にしているものなのかもしれない。何気ない日常の、何気ない一言でも、幸せだと感じる瞬間が大切なんだろう。
親と離れて暮らしている私は、その何気ない瞬間を一緒にすることができない。だからたまに感謝の気持ちを込めて、親孝行という形で親への感謝を一緒に伝えるのかもしれない。

今日は両親に電話でもしてみよう。


スマイル賞

  • 岐阜県岐阜市 泣き虫太郎様 (60代男性)
  • 静岡県富士市 yukari様 (40代女性)

<代表作品>静岡県富士市 yukari様の作品
「 今度は、私の番」

朝、ベランダの物干し竿に暖簾代わりの黄色いバスタオルを干す。それが、本日『ムスメ居酒屋』開店の合図。
『ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン』
父を思う時、真っ先に浮かぶ音。酒販勤めの父は毎日、沢山の酒瓶を荷台に載せてトラックを運転し、各地の酒屋へ配達し続けた。街の大型酒店から、奥深い山道を走り抜けた僻地の雑貨店まで。ガタン、ゴトンと荷台の酒瓶を鳴らし、働き者の父は来る日も来る日もお酒を運び続けた。

だが、そんな父を疎ましく思う時があった。それは母に代わり、父が幼稚園のお迎えに来る時。他の親達は皆マイカーに乗り、洒落た服で迎えに来る。なのに、私の父は…「ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン」沢山の酒瓶を派手に鳴らし、大型トラックで現れるのだ。頭には手拭いの鉢巻。トラックから勢いよく飛び降りる父は、汗だくのTシャツに黒の前掛け姿。

「ユカ!迎えに来たぞ」観衆注目の中、大声で父に名を呼ばれる度、恥ずかしくて堪らなかった。急いで走ってトラックに乗り込む。外から見えないよう座席の下に縮こまって隠れる。
「隠れんぼしてないでちゃんと座れ!」
「皆に見られたら恥ずかしいもん!」
古風な頑固親父に娘心など到底分からない。

そんな頑固親父は、お酒が大好きだ。若い頃はよく飲み歩いていたが、3人の子供が生まれると飲みに出かけなくなった。子供らを大学へ進学させ、一人暮らしさせる為だ。父は嵐の日も吹雪の日もトラックでせっせとお酒を運び、学費と生活費を稼いだ。

やがて、社会人になった3人の子供は結婚した。父も数年前に定年を迎え、『ガタン、ゴトン』も聞けなくなった。やっと再びお酒を飲みに出歩けるなと思いきや…

「年金暮らしでお金もないし、飲み歩く元気もないな。腰と膝が痛くて」
40年以上、重たい酒瓶のケースを運び続け、酷使した腰と膝はもう完治しない。少し足を引きずって歩く父を見ると、無性に切なくなる。

父のお蔭で私は大学へ行き、念願の教師になれたのだ。父に恩返しをしたくて、そこで開いたのが『ムスメ居酒屋』だ。私の家は実家から徒歩2分の距離。月に1〜2回、私は自宅で『ムスメ居酒屋』を開く。 父の好きなお酒と料理を用意し、夫を交えておもてなし。

開店時間は17時。父が晩酌は17時からと自身で決めているから。それは退職した会社の定時。そんな所も生真面目な父らしくて微笑ましい。

「美人女将!日本酒のお代わりを頼む!」
「美人『若』女将って言ったらあげますよ!」
「アラフォー娘が図々しいぞ!美人って付けてやっただけ有り難く思え」
大好きなお酒を飲み、好物の料理に舌鼓を打ち、憎まれ口を叩く父は上機嫌だ。

閉店後、私は父を実家へ送り届ける。引きずり気味の千鳥足。でも、羽が生えたように軽やかに浮き足立って見える。
「ガタン、ゴトン」父を支えて歩きながら呟く。
「なんか言ったか?」赤ら顔の父に、「何でもない」と笑って返す。
園児だった私を迎えに来てくれた父。今度は、私が父を送り届ける番。


ホスピタリティ賞

  • 宮崎県延岡市 濱 田 祐 介様

<代表作品>宮崎県延岡市 濱 田 祐介様の作品
「 一番の親孝行」

「大学教授になって帰ってくるから」

そう言って、私は両親と離れ自分の希望通りの大学へと進学した。母は別れ際の車で泣いていたというが、そんなことはつゆ知らず、私は明日から始まる新生活に胸を躍らせていた。

しかし、新生活はそう甘いものではなかった。周りを見ると、到底かないそうにない友だちが居て進学早々に大学教授の夢を諦めざるをえなかった。自信を失っていた私に、さらに追い打ちをかける出来事が…。

それは、自分が好きだった彼女に嘘をつかれ、別れたこと。周りの信用していた友だちにも色々な嘘をつかれ、私から人が去っていった。絶望した私は、学校に行けなくなり留年が決定した。

留年が決定した次の日、朝早くに玄関のチャイムが鳴った。両親だった。学校から連絡があったんだろう。私は怒られるのを覚悟で両親を迎えたが、最初の一言は、

「お腹すいただろう。ご飯食べたら?」
と言って、おにぎりを渡された。私にとってそのおにぎりは最高に美味しく涙がこぼれた。父は、私に自分も大学を留年したこと、失敗談をこれでもかというくらい聞かせてくれた。怒られることは全くなかった。

両親はその後、掃除をして帰っていった。当時、高速道路は全部今のように開通していなかったので広島から宮崎まで片道約10時間くらいだろうか、両親は仕事終わりで疲れているのにも関わらず、私を励ます為だけにそれだけの時間を使ってくれたのだ。私は、もう一度、人を信じてみようと思った。そして、いつしか夢は、父と同じ教師になることになった。

何度も採用試験に失敗したが、挑戦して4年後、正式に採用された。父が一番喜んでくれた。「最高の親孝行をしてくれてありがとう」と言ってくれ、最高の笑顔を見せてくれた。現在、教員生活14年目、まだまだ父の背中は見えてこない。

でも、子どもたちに人を信じることの大切さ、そこに居てくれるだけで幸せな存在なんだということを伝え続けていきたい。それが、私が両親にしてもらったことを返す最高の親孝行になると信じて。


親にありがとう賞

  • 神奈川県横浜市 れも様 (30代女性)
  • 奈良県生駒市 takomaro様 (40代女性)
  • 兵庫県加東市 阿 江 美 穂様 (60代女性)
  • 愛知県名古屋市 クテー様 (40代男性)
  • 山口県防府市  田 中 克 正様 (60代男性)
  • 石川県野々市市 母の目様 (50代女性)
  • 富山県小矢部市 向 山 菜 穂 子様 (60代女性)
  • 神奈川県平塚市 かなともこ様 (40代女性)
  • 滋賀県大津市 石 尾 節 子様 (60代)
  • 埼玉県さいたま市 葉子様 (30代女性)

<代表作品>神奈川県平塚市 かなともこ様の作品
「 相づちは親孝行」

母に一年半ぶりに会いました。お母さん、この前より小さくなったみたい…。しかも、ほんの数時間前に話したことも、「えっ、それなに?」って聞くようになりました。まるで、初めて話を聞くかのように。それでも、何十年も前のことを思い出しては、昨日のことのように、はっきり、そしてイキイキと話します。

翌日になると、母は、また、いつもと同じ遠い昔の話を始めました。最初はにこやかに聞いていたうちの子たちも、しばらくすると席を立ち、私もさり気なくキッチンへ。一人残った夫は、うなずきながら、母の話に耳を傾けていました。時折、「へぇー」と感心したり、「えー!」って驚いてみたり…。その時の母の表情は、嬉しくて、楽しくて、とても幸せそうでした。

しかし、私は夫が気の毒になり、夫をキッチンへ呼びました。

「もういいよ。いつまでも話聞いてなくて」

すると、夫は、

「大丈夫だよ。話聞いてあげるのも親孝行のうちだから」

と。あぁ、そうなんだぁ。夫に言われて、初めて気が付きました。

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>「親孝行のカタチ」が目指す社会とは?

「親孝行のカタチ」が目指す社会とは?

「親孝行」を通して家族が幸せになり、
社会全体も思いやりでいっぱいの世の中にすること

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